天に二日無し 序「蓮下に堕ちる」

 男は一人、丸木舟の上で瞑想をしていた。漕ぎ手はいない。ただ潮の流れに操舵を任せていた。行く先はただ一つ、観音菩薩の御座すおはす補陀落浄土だった。
 男は異形の姿をしていた。頭は烏帽子などなく蓬髪ほうはつで、口元はひげに覆われている。上等な絹で作られた水干は、襟元など垢にまみれていて、鼠や虫に喰われたのか所々が破れている。ただ、双眸そうぼう鼻梁びりょうが往時の端正な顔立ちを表していた。男には己の今の姿など気にも留めず、ただ観音菩薩の温かな御手にすがりたい一心だった。そして俗世の雑念を払おうと、生命が尽きるまで瞑想を続けている。
 だが、なかなかその雑念を払い去ることはできない。男はあきらめて己の雑念と向き合うことにした。
 男はかつて今の姿とは思えない美しい場所で美しい姿の浄土の主のような生活をしていた。有体に言えば、一国の王だった。祖先は妙見菩薩が化身してこの世に降り立ち、数多の豪族たちを平らげ天の下を知らすこととなったという。その父系の血筋を引くこと75代目にあたるのが、この男だった。何もせずとも、美しい生活を送ることができた。しかし、蓮の花の下に泥沼が広がっているように美しい場所にも汚いものがある。権力争いだった。
 元は臣下同士の争いだと思っていたものが、いつしか男の派閥と弟の派閥とに分かれ相争うようになった。蓮の花にも泥がかかることがあるように、王位をめぐる兄弟の争いへと波及した。都には無数の死骸にあふれ、酸鼻を極める所業が行われていた。結果、弟が戦に勝った。
 男は王位を明け渡した。引き換えに自分に与した者たちの助命を願った。弟はそれを反故にした。美しい王宮の庭には、自分に与した者たちの首が並べられ、呆然自失としている男に「流罪」を言い渡し、辺境の島へと幽閉した。  これが、男の雑念だ。
 ふと気が付くと、潮流は船を浜辺へと誘っていた。男は、雑念を払い去れない報いだと思った。船が浜に到達し先へ進めなくなると、男は浜に降り立った。そして砂まみれになることも気にせず、寝転がった。何日も食事をしていない。だが食料も水も探す気力はなかった。このまま生命が尽きるのを待つか、と男は考えた。
 男は何かないかと腰の辺りに手をやると、短刀があった。鞘から刀身を引き抜くと、月明りに照らされた刃文の美しさに目を奪われた。そして視界がぼやけた。双眸から涙があふれたのだ。あの一件以来、初めて感情を露にすることができた。
 男は満足だった。右手に握る短刀を、己の首筋にあてた。この瞳に映る最後の物は美しいものだけにしたかった。  
 その刹那、左目の目尻に何かを捉えた。浜辺に打ちあがった物体だった。男はそれが何であるか知りたかった。その好奇心が彼をわずかに生き長らえさせた。男は力なく立ち上がると、短刀を持ったまま物体に近づいた。
 ゆっくりと近づいた。そして後悔した。長い髪の毛が生えており、乳房があった。女の死骸だった。男は尻餅をついた。その時、目が女の下半身を捉えた。無数の鱗に覆われ、その先には尾びれがあった。人魚だ、と確信した。
 竜宮の女官とも海の物の怪ともいわれる人魚には、ある特性がある。その肉を喰らうと不老長寿を得ることができる。
 辺りには誰もいない。月だけが男と死骸を見ている。
 男は決意した。死骸に再び近づいた。その時、死骸の腹に1つの切り出した跡を見つけた。自分と同じことをした人間がもう1人いるかもしれない、と男は思った。
 気を取り直して、短刀を死骸の腹あたりに突き立てた。血があふれ、刃と肉と血が絡みつく音が、己の耳を支配した。何度も己に言い聞かせた。これは獣だ物の怪だ、と。そうして己の所業を正当化した。
 ようやく切り取り終わると、その肉を両手でつかんだ。そして噛りついた。髭が血まみれになっても気にも留めず、ただ夢中で喰らい続けた。味などわからなかった。
 みるみるうちに、身体が熱くなってきた。顔には生気が戻り、気力が湧き始めた。喉の渇きも、飢えも気にならなくなった。笑いが止まらなかった。そしてあることを決意する。この決意が、この男の生涯を支配することとなる。男はその決意をつぶやいた。何度もつぶやいた。その声が次第に大きくなっていく。そして夜の海に向かって叫んだ。
「再びまん。必ずや王位にかん。予が血筋こそ玉座にふさわしい。生きて生きて、生き抜いて、幾千年かかろうともてん二日にじつなきことを明らかにせん」
 かくて、男は蓮下に堕ちた。

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