〈武家の王〉足利氏

本文

同じ人間だというのに、なぜか上下関係が発生している。それは役職が上だからか、お金をもらう相手だからなのか、年が上なのか、いろいろ理由はある。しかし、私達が常日頃行っているマナーもまた上下関係を形成する一助となっているのではないか、とこの本を読んで思った。

本書、谷口雄太・著「〈武家の王〉足利氏」は、足利氏の暴力以外の統治戦略と、マナーについて考えさせられた。

まず、人を従わせるのに必要なものはなんだろうか。それはもちろん力だ。力のない者には、残念ながら人は頭を下げない。力にはハードパワーとソフトパワーの2種類がある。ハードパワーというのは無理やり従わせる力、すなわち暴力などが含まれる。ソフトパワーというのは、自然と従ってしまう力、すなわち価値観や文化といったものが含まれる。室町幕府の初期は、ハードパワーで他家を圧倒した。足利尊氏は、多くの戦に勝ち幕府を築いた。その孫、義満は圧倒的不利な京都での戦で勝利した。その息子である6代将軍・義教まではハードパワーが幕府に存在していた。

しかし、8代将軍・義政以降は元からの財政面の弱さや家督争いによる幾多の戦乱で、幕府のハードパーワーも低下していった。それでも15代将軍・義昭が京都から追放されるまで、一定の力を持っていた。この時持っていたのは、ハードパワーではなくソフトパワーだった。すなわち、「足利氏こそ武家の王である」という価値観だ。

この価値観は自然に形成されたのか。本書では、その価値観は作られたものだと書いてある。誰が作ったのか。それは他ならぬ足利氏だった。

彼らが行ったものが2つある。「イデオロギー」と「儀礼」だ。

「イデオロギー工作」として知られるものに、足利尊氏を源氏の英雄・源義家の生まれ変わりとして特別視させるものがある。本書にはこうある。

たとえば、源義家が「我が七代の孫に吾(義家)生まれかはりて天下を取るべし」と置文(遺書)を遺し、その七代目にあたるも時節の到来しなかった足利家時が「(さらに)三代の中に天下をとらしめ給へ」と置文を残して、まさにその遺言を実現したのが足利尊氏であった(尊氏は家時の孫にあたる)という『難太平記』に見える記事がその典型例である。

本書p42~43

そういった軍記物は当時流布された話などが元にされている。おそらく足利氏が雇ったスパイに命じて「あの英雄・八幡太郎義家の予言に選ばれたのが足利尊氏である」と宣伝させたのだろうと思う。例えば、太平記語りと呼ばれる講釈師みたいな人間が路上でパフォーマンスを披露していたから、エンタメとして民間に浸透させていったのだろうと推測する。一見、ばかばかしいとも思うが、神話なりそういった迷信めいた話、エンタメなどで国民を鼓舞して戦争に駆り立てた例などいくらでもある。そういう風に「足利氏は絶対」という価値観を上下の階層に浸透させたのだろう。

もう一つの価値観を形成させたもの「儀礼」について話そうと思う。本書では足利氏の頃に多くの儀礼が整備されたとある。その儀礼は足利幕府崩壊後、江戸幕府にも受け継がれる。ではどのようなものがあったのか。本書から引用しようと思う。

たとえば、将軍との挨拶に際しての規範である対面儀礼、道で出会った場合に守るべき路頭礼、手紙のやり取りに関するルールである書札礼、年始から年末まで春夏秋冬に繰り広げられる幕府の年中行事・参詣行列など、広く日常・非日常・恒例・臨時に行われるものの総体であり、それら諸儀礼での武家の「位置」「距離」が身分・家格に応じて徐々に決定されていったのである。

本書p64

儀礼における「位置」と「距離」とはすなわち、席次である。先ほどのイデオロギー工作で貴種とされた足利氏との距離に応じて、儀礼に気をつけなければならないのかが決まってくる。当然下の方の人たちは末席になり、また上の方の人々に頭を下げなければならない。この上下関係が同輩だったはずの武士たちに競争意識を抱かせ、足並みを崩し、足利氏への忠誠心を高めたのだ。なぜなら武士たちの上下関係を決めるのは他ならぬ足利氏だからだ。

イデオロギーなり儀礼なりは、一朝一夕には効果を発揮しないが、時を経るごとに砒素のように頭も身体も蝕んでいく。何代にも渡って、実践し続けたのだろう。

現代社会のおけるマナーもまたそうだ。目上の人に上座を譲り、自分は下座に座る。目上の人には敬語を使い、同輩以下の者にはタメ口を使う。こうやって上下関係が可視化されるから、ただの人間だというのに相手が何だか特別な者のように思えてしまうし、自分がなんだか召使いのように思えてしまう。

マナーというのも、人間が人間を従わせるために生み出した統治戦略のひとつなのかもしれない。

参考文献

〈武家の王〉足利氏 谷口雄太・著

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